市民が提案する「国営瀬戸海上の森里山公園」のマスター・プラン <目 次>  はじめに―なぜ、今、里山公園構想を提案するのか?   氈D今、なぜ「里山」か?    1.「里山」の消失と生態系    2.なぜ、「里山」が重要なのか?   .愛知県の里山分布と海上の森の歴史    1.愛知県の里山分布と猿投山一帯の連続した森の意味    2.里山としての海上の森の歴史がもつ意味   。.わたしたちの国営里山公園構想の提案    1.「国営公園」とは何か?    2.「国営瀬戸海上の森里山公園」の基本理念と原則    3.里山公園構想の具体化の基本的な考え方    4.里山公園ではどんなことをやるのか?    5.生物多様性を保持するための里山林の生態学的な管理方法の研究    6.必要となる施設    7.海上の森の里山公園の整備計画    8.地域配置プラン  おわりに―今までなかった新しい「里山公園」の提案  参考文献・資料  あとがき <あらまし> 1.海上の森の歴史(江戸から現代へ)  海上の森は、落葉広葉樹を主体とし、たくさんの貴重な動植物が生息します。海上の里とその周辺は、里山として古くから人々が住みついて農業を行ってきました。さらにその周辺の里山林は、尾張藩の御料林として、藩の重要な産業である瀬戸焼きの燃料の供給地として、広く松が植林されていました。それは、明治になって愛知県に県有林として引き継がれました。敗戦直後は燃料としての石炭が入手できなくなったため、県有林の松林を大量に切って窯の燃料として供給しました。その後、スギ・ヒノキの植林がなされましたが、それ以外の地域は、戦後の丸刈り状態から自然の力で徐々にコナラやアベマキなどの落葉広葉樹の森に再生して今日に至っています。 2.愛知県内でまとまって残されている里山、海上の森が豊かな理由  愛知県全体の里山を調べると、かつては広く里山が分布していましたが、高度経済成長期以後、里山は急激に消滅していきました。海上の森と猿投山一帯は、愛知県で残された唯一と言える連続した広い森林をもつ里山です。それが、生物の多様性を作り出した原因の一つと考えられます。  また、海上の森には貧栄養湿地が多く、そのことが生物の多様性を高めています。貧栄養湿地は厚い砂礫層が存在するためです。それが愛知県の他の里山地域では見られない海上の森の特徴となっています。 3.万博・新住計画と国営公園構想−キーワードは「里山」  海上の森は特徴のある貴重な場所であり、その里山環境を維持・保全することが緊急の課題であって、愛知県や万博協会が計画している万博・新住・道路事業では破壊することになります。そこでわたしたちは、その「対案」として海上の森の里山環境を保全する「国営瀬戸海上の森里山公園」の構想しました。愛知万博の理念は、「自然の叡智」、「自然との共生」、「持続可能な開発」ですが、かつてあった海上の森のような日本の里山は、人が自然を完全に支配するのではなく、まさに自然の叡智に学びつつ、自然と共生し、持続可能な完結した社会でした。それを里山公園として復活しようというのです。これこそ万博のテーマにふさわしいものです。 4.生きものにとっても人間にとっても気持ちの良い場所に−里山公園をめざして  わたしたちの構想は、現状を基本的に変えることはありません。原則として園内は自動車を乗り入れません。変わるのは、銭屋鋼産跡地に管理施設や駐車場を作ること、いくつかの入口付近に小さなゲートを配置することなどです。大事なことは、できる限り田んぼを復活させることと、放置して暗くなった里山林に手を入れること、伐採した木材を利用するためのシステムを導入することです。また、里山に市民参加を可能にするために、いくつかの農家風の宿泊施設、民族文化資料館を民家の跡地に作ります。古窯を復元し、陶芸工房を作って歴史を活かします。子どもたちや高齢者・身障者が自然とのふれあいができるような公園を目指します。 市民が提案する「国営瀬戸海上の森里山公園」のマスター・プラン <はじめに―なぜ、今、里山公園構想を提案するのか?>  愛知県瀬戸市南東部にある海上の森は、名古屋大都市圏にあって、開発からかろうじて残された里山自然の宝庫ともいうべき場所です。海上の森およびその周辺には、種の保存法で猛禽類の筆頭に上げられる絶滅危惧種オオタカが営巣し、同じく絶滅危惧種のサンショウクイ、サンコウチョウなど120種以上もの鳥類が生息します。また、シデコブシ、サクラバハンノキ、サギソウなどレッド・リストに上げられた生育環境が危ぶまれる種や、東海地方固有の植物を含む1000種を越える植物が確認されています。さらに、ハッチョウトンボ、ギフチョウなどの貴重な昆虫類を始めとした2000種以上が生息します。海上の森にこのような多様な生物種が生息するのは、里山林に人手が入り、猿投山地と一体となって分断されずに、つながりを持った広い森と水系に恵まれているからに他なりません。それゆえに、海上の森は、その自然を楽しむためのハイキングや自然観察会・探鳥会が行なわれるようになり、多くの県民・市民に愛されてきました。  この森をこわして、愛知県は、2000戸6000人のニュータウンにしようという計画を立てました(正式には瀬戸市南東部地区新住宅市街地開発事業といいます。長いのでここでは新住事業と呼びます)。それは、愛知県の地方計画で、豊田市から瀬戸市にかけての丘陵地を「学術研究開発ゾーン」として開発する上位計画に基づいています。その後、国際博覧会(以下、万博事業という)を開催する計画がなされましたが、単独で事業をするには莫大な事業費がかかりますので、新住事業で造成した土地を借りて万博会場候補地とすることになりました。また、新住事業にも万博事業にもアクセス道路が必要になるため、名古屋瀬戸道路と県道若宮八草線の計画がなされたのです。2本の巨大な道路が海上の森を東西に分断し、海上の森の真ん中を新住事業でつぶします。現在の静かな海上の森が、高層住宅が林立する喧騒の街となるのです。  いずれも、バブル経済に酔いしれていたころにできた計画です。その事業には、莫大なお金がかかります。現在は、財政緊急事態宣言を出さなければならないほど、苦しい愛知県の財政です。万博・新住・道路事業だけではありません。中部新空港も同時着工です。巨大な公共事業を二つも抱えるなんて、今の愛知県には到底そんなお金を出すことはできませんし、借金して行うとすれば、そのツケはすべて県民の税負担となって、後の世代の人々を苦しめることになります。もっとお金がかからない方法を考えるべきです。それが私たちが提案する国営公園構想でもあるのです。  現在、この三事業は、環境アセスの行政的な手続きの最中であり、新住事業についてはその最後の手続きである評価書が出され、この12月には都市計画決定がなされようとしています。万博事業も評価書案が出されて通産大臣の意見書を受けて、環境アセスの手続きを終える予定です。これまでに、わたしたちは何度も県庁に足を運び、一方的にすすめられる行政手続きに抗議したり、準備書の内容を検討してその不備を指摘したりいろいろのことをしてきましたが、愛知県や万博協会はただ強引に事業を進めることしか考えておらず、私たちの批判に一切耳を貸さない姿勢を取り続けてきました。そして、新住事業のための工事が年度末から行われる事態にまで立ち至ってしまったのです(この経過については、巻末の経過表を参照してください)。  このような緊迫した状況の中で、わたしたちは、何としてもオオタカが舞い、シデコブシが咲き乱れる海上の森を破壊から守らなければならない、ムササビやタヌキの棲家を守りたいと願っています。ですから、わたしたちの意見がまったく取りいれられないままここまで進んでくると、多くの人々に納得できて実現性があり、しかも行政にも受け入れやすい「対案」(カウンター・プラン)を作成することが必要になりました。それが、今、国営里山公園構想を提案する理由です。  以下、わたしたちは、先ず「里山」がなぜ重要なのかを述べ、具体的に愛知県の里山の分布における海上の森の意味、そして里山としての海上の森の里山環境の変遷史を追ってみたいと思います。それを踏まえて、後半に「国営公園」にする理由や具体的な海上の森の里山公園構想について述べることにします。 氈D今、なぜ「里山」か?  1.「里山」の消失と生態系  植物のレッド・データブックは、日本の高等植物のほぼ3種に1種が絶滅に瀕していると報告しています。しかも深刻なのは、つい最近までごく普通に見られた身近な植物が絶滅に瀕していることです。またメダカやドジョウ、カエル、ホタルなど、昔はどこにでもいた生物がどんどん姿を消しています。このような事態となって、生物学者や生態学者が少しずつ里山の生態研究を始め、農業や林業の近代化に伴う里山の変容と消失が生態系を分断し、生物の多様性を失わせてきたことを明らかにしてきました。  高度経済成長期以前の里山は豊かな生物相を保持してきたのですが、1960年代以降急速に衰えを見せはじめます。それは、1960年代から始まった燃料革命などによって薪や炭(薪炭という)として里山林が利用されなくなったからです。また、化学肥料や農薬の大量使用や田んぼの整備・用水路のコンクリート化、機械化の進行によって、田んぼの自然環境が激変したことなどに原因があります。全国一律の減反政策は、圃場整備ができにくい里山における水田耕作の放棄の原因ともなりました。  60年代から始まった燃料革命は、文字どおり「革命」でした。産業と家庭から石炭および薪炭を排除し、安価な原油を海外から輸入して、石油・ガス製品の生産・消費を急速に拡大しました。石油文明の時代に入ったのです。金属・機械・造船などの重工業と石油製品を中心とする化学工業の拡大政策が、「所得倍増計画」として進められました。それは、都市に暮らす人々の暮らし方を変えたばかりでなく、農業の方法を変え、村を変え、結果として自然の景観までも変えてしまいました。それまで石炭や薪や木炭、つまり炭坑や雑木林に生計を依存してきた人々にとっては、生活の根拠を奪われる結果となりました。多くの炭鉱は閉山になり、たくさんの労働者が首を切られ、労働争議が多発したわけです。農山村では、薪炭生産は大打撃を受け、農山村の農民の重要な収入源がなくなりました。そういった人々の多くは都市の労働者として流出し、大都市に移住して都市は過密になり、都市問題が発生しました。  一方、林業は、戦中・戦後の薪炭などの木材需要の高まりで、ほとんどの里山の松林や落葉広葉樹林は伐採され、山は丸刈り状態となりました。さらに戦後経済がどうやら回復する50年代後半には、洋紙需要が増えて製紙会社がパルプ用材のために山の雑木林を皆伐し、洪水や土砂災害が頻発しました。それに懲りて、60年代からは「拡大造林」政策が行なわれるのですが、その政策の中で広葉樹林に代えてしてスギ・ヒノキなど金になる樹木の植林が一斉に行われました。ところが、60年代後半からの木材の輸入自由化に伴い、安い外国産の木材の大量輸入により、木材価格が低く押さえられた結果、日本の人工林の商品化が困難になり、管理が放棄され、間伐が行なわれず、木材価値のないひょろひょろとした樹木が密生する暗い森林となりました。それは、今でも続いています。  人工林だけでなく、前述のような社会状況の中、里山林にも人手が入らなくなり、里山の広葉樹林は自然の森林の遷移に任せて大木に成長し、薮が生い茂り、林床に光が届かず、暗い常緑の森林へと遷移が進むに任せた状況があります。こうして、日本の農業と林業が軽んじられる社会となるに伴って、里山は豊かな生物相を保持することができなくなりました。  スギ・ヒノキなどの人工林は萌芽更新をしませんが、広葉樹林は、切っても萌芽更新によって再生することが決定的に違います。現代の日本は、まさに石油に依存した文明ですが、世界の石油資源の枯渇の問題があって、21世紀は「脱石油文明」の構築が求められています。そのためには、萌芽更新によって絶えず再生する雑木林の森林資源の利用が、その問題解決の大きな部分を占めることが予測されます。しかし、それには、現代日本の社会・経済的な構造を変えていかなければ実現しません。途方もなく大きく困難な問題で、日本人の価値観の転換も必要です。そういう意味で、再生可能な里山林を含む里山システムの復活は、21世紀の我が国の大きな課題であると言えましょう。それは同時に、荒廃した我が国の自然環境を回復することにつながります。 ◆森林の遷移 日本の気候は温暖で湿潤ですので、何ら人手が加えられなければ、300mよりも低いところではカシやシイなどの常緑の広葉樹林になるといわれています。何らかの原因で裸地になった場所には、はじめは雑草が侵入し、潅木が侵入し、土壌が成熟してくると、コナラやアベマキなどの落葉広葉樹が入ってきます。それが成長するに連れてさらに土壌が成熟し、常緑の樹木が生え、それが大きくなって落葉樹を排除して常緑の森になるのです。そのような森を極相林といいます。この地方では、場所によって、裸地から極相林になるまでに300年〜500年かかると言われます。日本の里山林は、昔から人々に利用され、樹木が伐られつづけていましたので、落葉広葉樹のままに保たれ、遷移が進行しないですんできたのです。  2.なぜ、「里山」が重要なのか?  近年は、里山のような「身近な自然とのふれあい」に、多くの人々の関心が高まってきました。高度経済成長期以降の都市化の進展に伴い、住宅地の開発、工場用地の開発が盛んに行われ、都市近郊の里山が開発の対象とされて、急速に身近な自然が失われてきたからです。農山村の過疎化が進行し、農業従事者の減少をもたらしました。拡大し高密度化した都市の住民は、そのストレスを癒し人間性を回復するために、海や山の自然を求めるようになり、観光ブームと呼ばれる現象を招き、リゾート開発が全国に行われてきました。ゴルフ場開発などにも里山がねらわれ、大規模に開発されてきました。都市の産業廃棄物の処分場も、主として里山が開発の対象にされています。  このような里山開発の圧力の中で、開発からかろうじて残された、都市近郊の雑木林や豊かな自然が残っている里山に目が向けられるようになったのです。里山は、北海道の知床や日本の中央高地のような原生自然ではありません。しかし、そこには、多様な動植物がたくさん生息しており、それに親しむことによってほっとしたいという要求が人々を里山に引き付けているのです。都市住民による里山の探鳥会、自然観察会などが活発に行なわれるようになりました。都市住民と農民との産地直売運動は、規格化されている大量生産の農産物よりも良いということで、都市住民と農民とが直接に結びついて発展してきました。無農薬・低農薬農作物の販売も急速に拡大しています。  最近では、自然とのふれあいも、自然観察やハイキングを楽しむというだけではなく、ボランティアによる農山村の森林伐採・下草刈りなどの汗を流す労働作業を通して、自然体験を楽しむ人々も出てくるようにもなりました。ある自治体が放棄された休耕田を買い上げ、耕作者を募集したところ、近隣から他府県の人まで数十倍の応募者があったといいます。これは、農山村が、都市住民にとってのアメニティー空間として再評価されている証拠です。里山の自然と文化は、都市住民の人間性の解放の場、癒しの場ともなっているのです。  里山は、その自然だけが貴重なのではありません。田んぼ耕作や薪や炭の生産などのために、これまで農民が苦労し汗してきたこと、ため池・用水管理、農耕技術、生産技術そのものが文化です。農具とその使い方、農業のこよみ、家屋の建て方、カヤぶきの屋根、家畜小屋、家畜の世話など、そのものが文化です。村では、農村共同体を維持する神社の祭礼が、地域毎に行われます。道祖神信仰・地蔵尊信仰などもなつかしい里山文化です。それらは、里山の自然と分かちがたく結びついて存在しています。山菜取り・キノコ刈り・川魚取りなどは、里山の生活と結びついた遊びの文化でもあります。  一方、1993年には、「環境基本法」が制定されました。それには、原生自然ばかりでなく、人手が加わった「二次的な自然」が大切であるとして、その保全を求めています。二次的な自然とは、まさに里山です。また最近は、「農業基本法」を改め、「食糧・農業・農村基本法」が制定されました。それは、水田耕作などの農業が単に食糧生産を担うばかりでなく、水害や土砂災害の防止などの国土保全機能、人々と自然との触れ合いなど多くの機能を持っていますので、その価値を見直し、農業と農村を守ることの大切さをうたっています。まさに農業・農村が、環境基本法でいう「二次的自然」としてそのあり方が見直されてきたということです。  開発されたとはいえ、里山の二次的自然は、日本全国に広い面積にわたって存在します。先に述べたように、いかにして里山の自然と文化を守るかが、日本の荒廃しつつある自然環境をよみがえらせる決め手であると言っても過言ではありません。それは、身近な動植物を保護し、多様な生物種を保存していくためにも極めて重大なのです。1960年代以前の里山は、まさに「持続可能な開発・利用」をしてきたシステムです。自然の恵みを余すところなく活用し、そのまま自然に戻す、ほとんど廃棄物を出さない、まさにゼロ・エミッションの社会です。  「持続可能な開発」ということが世界の環境問題の要であることは誰しも認めるのですが、それは掛け声ばかりでその具体策は提示されていません。日本の里山こそ、世界の人々に誇るべき持続可能な開発の技術・文化です。現代人の心の拠り所として、また未来の社会再生のキーワードとして、里山の存在の重要性が増しています。海上の森で「環境万博」をするというなら、海上の里山環境を復元する過程を出展することこそふさわしいのではないでしょうか。 .愛知県の里山分布と海上の森の歴史  1. 愛知県の里山分布と猿投山一帯の連続した森の意味  1)愛知県の里山マップ  海上の森は、総面積が540haもまとまって存在し、落葉広葉樹林が広い面積を占め、いたるところに貧栄養湿地が存在することが特徴です。そのような里山は、他にも愛知県に存在するのでしょうか。  里山といっても、海上の森だけを見ていただけでは、海上の森がどのような特色があり、貴重であるのかが分かりません。1960年代以前には、いたるところに里山が広がっていました。わたしたちは、そのような愛知県の里山がその後の開発によって次第に切り刻まれ、減少していった、その崩壊のプロセスを知り、さらに具体的に森林の減少と林相の変化も知りたいと考えました。  里山について人々の関心が集まるようになったのは最近のことであり、また里山の定義もあいまいなことから、里山の広域的な分布をまとめたものはほとんどありません。その中で、愛知県環境部が行った調査「里山自然地域保全事業全県調査報告書」(平成9年度(1997年度)、15万分の1付図)が唯一のものです。これは、おおむね標高300m以下の地域で、森林面積が65%以上を占め、およそ100ha以上のまとまりのある森林区域を抽出して地図化したものです。この定義のみで里山をすべて規定できるかは問題がありますが、現時点ではこれを利用するしかありません。また、これには、里山の分布を示すのみで、その林相たとえば人工林、落葉・常緑広葉樹林などの区別がなく、詳細は分かりません。しかし、ここでは、一応その定義に従って里山区域とします。したがって、標高300m以下に限定したために、三河山間部や猿投山の山頂部は除かれていることをお断りしておきます。  2)愛知県の里山の激減とその林相変化  10年ほど前に農地林務部が調査した「愛知県林相図」(平成元年(1989年)、15万分の1)があります。また、昭和33年(1958年)作成の「愛知県林相図」(20万分の1)もありました。後者は高度経済成長期以前、里山が広がっていた時代のもので、大変貴重です。これらは林相図ですので、スギ・ヒノキなどの人工林と広葉樹林・松林などが区別されて図示されています。  先ず、2枚の林相図を見比べてみて、現在に近い前者と約40年前の後者の林相図の違いに驚きました。全体に森林が減少していますが、知多半島から尾張丘陵地域での森林の減少はすさまじいものです。名古屋大都市圏の都市化による市街地の拡大のもたらした結果です。約40年前は、知多半島から尾張丘陵の地域は大部分が松林となっています。そして、足助町や下山村など以東の愛知県の山間部は、昔から林業の盛んな村々でしたので人工林が多かったのですが、それでも山地の尾根や奥地はほとんどが松林や広葉樹林で覆われていました。それが現在は、松林と広葉樹がほとんど消え、人工林に取って代わりました。  この林相図では、松林と広葉樹林というのは、松林が約5割以上を占めれば松林、それ以下であれば広葉樹林としたのであり、マツは昔から自然に生えていたものと植林されたものがあると思われます。当時は、戦中・戦後に森林を伐採して洪水や土砂災害が多発したために、治山治水の国策事業として山への植林がされ始めていました。その樹種は、燃料用および砂防用に主としてマツが植林されました。また乾燥した痩せ地は、スギ・ヒノキなどの人工林は植林に適さなかったため、そのような土地にはマツが植林されました。花崗岩地域が広い三河山間部では、今でも山の尾根部には松林がたくさん残っています。  その後、1960年代には農林省の補助金でスギ・ヒノキの植林が一斉に行われ、松林や広葉樹林はどんどん減少していきました。ところが、その後1970年代になって、木材の自由化に伴い外国産の安価な木材が大量に輸入されて木材の価格が暴落し、林業が衰退していきました。そして、スギ・ヒノキの植林地は放置されたままとなってしまいました。1989年の林相図では、その状況を反映して人工林の面積が著しく拡大しています。かつて松林や広葉樹で覆われた里山においても、人工林の拡大は著しく進んでいることが分かります。  スギやヒノキは、はじめは密に植えて競争させ、成長に伴って成長の悪い木を伐採していき(これを間伐といいます)、成熟した森となります。下枝を切り取らないと、節の多い木材となり、商品価値が下がります。間伐をしない森は、やせ細った樹木しかできませんし、林床に光が入らず暗い森になり、下草もなくなってしまいます。現在はそのような人工林が大部分なのです。人工林は、間伐などの適切な手入れをしていれば、落葉広葉樹林に比べれば生物多様性は劣りますが、多くの生物の棲家となり、また十分な保水機能・砂防機能もある森林となります。人工林を評価しないのは正しくありません。  1997年の愛知県環境部作成の里山マップに、1989年の林相図から読み取った林相を書き入れた図を作成しました(この里山マップでは、国有林は除いてあります)。ところで、国土庁が作成した「土地保全図」(平成3年、1991年)の中に、「現況植生図」があります。それは、1980年代に調査された植生分布図をもとに、愛知県全域の植物種群落の分布図(15万分の1)としてまとめられています。それでは植物種が分かります。多少古い資料ですが、それを見ると、現況とそれほど変化していないと考えられます。  3)海上の森を含む猿投山一帯の重要性  この里山マップ・林相図を詳細に検討すると、広葉樹林であっても遷移が進行して常緑樹林となったところもありますし、落葉広葉樹林が広く連続して分布する里山はほとんどなく、広葉樹林であっても工場・住宅地・公共施設・ゴルフ場などによって森が分断されているところが多くなっています。人工林が少なく落葉広葉樹林が分断されずに連続して広い面積を占めるのは、猿投山を中心とする海上の森一帯しかないことが分かります。豊田市・岡崎市などでも東部の丘陵地は里山となっていますが、人工林や松林が多く、広葉樹の森林がまとまって存在するところは限られています。そのようなところは、公園として囲われたところが多く、逆に行政的な囲いがなければ開発の対象にされてきたのだろうと思われます。それも、海上の森を含む猿投山一帯ほど、広い連続した森林となっているところはありません。  海上の森を含む猿投山地は、まさに愛知県の中でかろうじて残され、落葉広葉樹林が広く連続して残っているところであることが分かりました。さらに、海上の森は西と東をつなげるポイントにもなっています。ここが開発されたら、猿投山一帯の森林はその連続性を絶たれ、生態系にも大きな影響を与えます。このようなまとまりを持って連続した広い広葉樹林が存在することが、海上の森の生物多様性を著しいものにしている原因の一つと考えられます。  森の広さと生物の多様性との関係については、よく山に例えられます。山は底辺の面積が広く標高が高くなるに連れて急激に面積が減少します。小さな森ではヒヨドリしか生きていくことができなくても、森の面積が広がるとフクロウも生息するようになり、さらに面積が増えるとオオタカやイヌワシが生息できるようになります。つまり、森の面積が増えるほど餌が豊富になるからです。それは、ほ乳動物のムササビやタヌキにとっても同様です。また、広い森であれば、一部分が破壊(伐採)されても他に移動して生存を維持することができます。こうして、森が分断されないで面積が広くなるほど、たくさんの種類の生物が住めるようになり、個体数も多くなり、生物の多様性が維持されることになるのです。  また、海上の森の特徴の一つは、貧栄養湿地の存在です。海上の森には、花崗岩の基盤の上に厚い砂礫層が存在するという地質構造により、砂礫層に貯えられた地下水が少しずつ供給されて絶えることがないために、湿地となるのです。砂礫層がチャートを主体とするので、溶け出す成分が少なく、貧栄養となるのです。これが海上の森にたくさんの貧栄養湿地が存在する理由です。湿地には、大きく成長するコナラやアベマキ、ツブラジイやアラカシなどは侵入できませんので、湿地環境に耐えられる植物だけが生き続けることができ、独特の湿地群落を作るのです。これは海上の森の特徴ですし、貴重さであり、そこには他の里山には見られない貴重な植物種が存在し、海上の森の生物の多様性を際立たせています。シデコブシ、サギソウが生育するのもそのような環境です。  愛知県の湿地では、作手村の長の山湿原とか豊橋市の葦毛湿原などは良く知られています。しかし、他の地域はあまり知られていません。あっても小規模なものです(菊地ほか、1991)。猿投山の東の豊田市や藤岡町には砂礫層が堆積していますが、花崗岩の上に乗る砂礫層は薄く、厚いところではそのほとんどが陶土・珪砂の採掘のために開発されていますので、貧栄養湿地はほとんどありません。 ◆貧栄養湿地 栄養分が少ない湿地を貧栄養湿地といいます。海上の森には、この栄養分が少ない湿地にしか生育できない植物も多く見られ、生物多様性が豊富な理由となっています。栄養分が豊富な湿地(富栄養湿地)は篠田池や赤池の周辺部で見られ、ヨシやセイタカアワダチソウ等大型の植物が繁茂しています。これに対して貧栄養湿地ではモウセンゴケやサギソウ等の背が低い、日当たりを好む植物が多く見られますが、これらの植物は、富栄養湿地では、他の植物との競争に負けてしまい、生き残っていくのは難しいのです。東海地方にはこのような貧栄養湿地が多く、この地方にしか見ることができない植物も、このような環境に生育していることが多いのです。  2.里山としての海上の森の歴史がもつ意味  さて、海上の森の昔の自然環境や土地利用を復元するために、日本で始めて撮影された米軍の航空写真(1948年撮影、敗戦の3年後の8月撮影)を判読して、海上の森の土地利用図を作成しました。それをもとに、戦中戦後から1960年頃までの里山利用の状況について、長く海上の森に住んでいる方々からの聞き取りを行いました。さらに17年後の1965年に撮影された航空写真および1987年撮影の航空写真を判読し、その変化を読み取りました。それをもとに、里山としての海上の森の昔の姿を復元し、その変化を考察してみました  1)海上の森の里山林はどのように利用されていたのか?  先ず、海上の森の土地所有関係とその利用の歴史をひもといてみました。末尾に資料として、「瀬戸周辺および海上の森の歴史年表」を付けておきましたので参考にしてください。  海上の森の大部分は、江戸時代には尾張藩の御料林で、海上の里や平地の山口村の周辺部だけが地域住民の民有林でした。その森林は、「御留林」であり、藩の許可なく伐採は禁じられた、クロマツが植林された山でした。それは、藩の重要な産業である瀬戸焼き窯の燃料用の樹木の供給地でしたから、火力の強いクロマツが植えられていたわけです。そして明治になって、御用林は愛知県の県有林となりましたが、その関係は現在に引き継がれています(最近は万博・新住事業のために用地買収が行われ、さらに県有林が増えました)。ですから、海上の里周辺の民有地と山口村の民有地を除いて、海上の森のほとんどはクロマツ林に覆われていたのです(もちろん広葉樹も少しは生えていたでしょうが)。ですから、当時は山のどこでも松茸が取れたということです。  また、聞き取りによれば、炭焼きをしていたのは戦前であって、当時、炭は政府の統制品であったので、許可なく製造・販売はできず、県が大きな炭焼き小屋と窯を作って大量に炭を生産していました。それはかなり大掛かりな炭焼き窯であったといいます。それが海上の里の東の山に3個所ほどあり、農民は山から木を切り出す仕事をしたとのことです。そして、その後にスギ・ヒノキを植林しました。しかし、戦後は炭焼きはほとんど行っていなかったとのことです。  戦中・戦後になって、燃料不足と建築用の木材需要が高まり、日本全国どこでも里山の森林が一斉に切られました。海上の森も例外ではありません。この地域では、戦後に山の樹木が切られたとのことです。また、陶土を取る坑道に使う坑木の切り出しも、県の事業として大々的に行なわれたそうです。山口村の人々は、山の薪を束ねて名古屋まで売りに行った人々がいたと記録されています。海上の森が特殊なのは、瀬戸物を焼く燃料であった石炭が入手できなくなり、県有林のクロマツが一斉に切られて瀬戸焼きの窯の燃料にされたことです。そのために、海上砂防池や篠田池の周辺および吉田川下流部の山はほとんど皆伐され、丸刈り状態になったといいます。現在クロマツはほとんどありませんが、それは伐採された跡に自然にアカマツが侵入したものと思われます。  当時、農民は県に雇われてその仕事に当たったわけですが、「シデコブシとかサクラバハンノキとかまったく知らなかったので、とにかく切って切って切りまくった」と語っていました。そのように森の木を切ることで萌芽更新によって森が再生するのです。森の木を切ることが、里山の自然を維持することになったのです。しかし、ここで注目したいことは、木を切るといっても根っこはそのままであり、表土がはがされたり、地形が改変されるようなことはありませんでした。江戸時代は、薪の不足のために農民が樹根まで掘り取るために、ひこばえ株(切った後に出てくる若芽)や樹根の掘り取りを禁じるお触れが出たこともあったそうです。 ◆萌芽更新 広葉樹は、木を切るとその脇から自然に芽が出て大きく成長します。それを萌芽更新と呼びます。根元から分れて株立ちしている樹木を見かけますが、それは萌芽更新によって成長した樹木であることが分かります。  2)1948年の航空写真の判読による海上の森の土地利用  1948年の航空写真は、戦後すぐの時代の海上の森を写し取っています。米軍の写真を見て先ず気がつくことは、田んぼが今よりもずっと広く広がっていたことです。海上の里の田んぼは現在よりももっと広く、隅々まで田んぼでした。さらに、海上川下流の谷沿い、四ツ沢、現在の海上砂防池(当時は存在しなかった)とその上流地域の河谷沿いに広く分布していました。銭屋鋼産の跡地も、すべて田んぼでした。篠田池は当時は存在せず、池のほとんどは田んぼとして利用されていましたし、その上流地域にも広く田んぼがありました。屋戸川流域の下流部も田んぼでした。驚いたことに、吉田川の河谷にも、その谷沿いに細長く田んぼがありました。第2広久手池(赤池)の上流部も田んぼがありました。これらのほとんどは、海上の里の農民が耕作していました(屋戸川下流部、吉田川沿いの田んぼは吉野町、屋戸町の農民が耕作していました)。聞き取りによれば、水の出る沢はすべて田んぼにしたといいますが、まさにそのとおりです。  これも驚くべきことですが、現在の樹林からは想像もつかないほど、山の樹木はほとんどが「丸刈り」にされており、大きく成長した森林ではなかったことです。民家の高さなどから推定して、大部分の山は数m以下の森林で、10mを越える樹木はほとんどないことが分かります。当時の皆伐の状況が分かります。しかし、切り残されておよそ10m以上の森林も部分的に残されています。おそらくそれは、奥地であるために切り出しが困難で皆伐を免れたものや神社や屋敷森であると推定されます。興味深いことは、海上砂防池や篠田池周辺の県有地では、皆伐ではなくぽちぽちと樹木を残して切っていることです。おそらくそれは、直径が数十cmを越えるような大木は、切らずに残したのではないかとおもわれます。あまり大きな木は運び出すにも薪にするにもかえって手がかかる、と地元の人が言っていました。現在でも、海上の森でしばしば巨木に出会うのは、切り残された樹木であったと思われます。  海上の森の南部や東部には、広くスギ・ヒノキの人工林が分布しています。それは、県の植林政策により、松林を切って植林された人工林です。大正時代から少しずつ始まっていますので、旧い樹木は現在は80~90年も経つ大木に成長しています。航空写真を見て興味深いのは、スギが谷筋に植えられ、斜面中腹はヒノキが植えられていることです。スギは水分が豊富でないと成長しないので、その性質を考えて植林したと思われます。尾根部分の痩せ地は松林のままでした。  海上の里周辺の民有林も、薪用の森林を残して同様に切られました。既にスギ・ヒノキが植林されたところは除いて、皆伐されたところは山崩れや表土の流出が激しく、その砂防のためにヤシャブシ・ハンノキ・ハリエンジュ(ニセアカシヤ)などが植樹されたといいますが、その場所や広さについては資料がありません(県農地林務部「瀬戸市南東部地域自然環境保全調査(人工林・常緑広葉樹林)」)。その後、自然にコナラ・アベマキなどの落葉広葉樹が侵入し、植樹されたヤシャブシなどを覆い隠すように成長したため、今はほとんどその痕跡を留めずに現在の落葉広葉樹の森となったと考えられます。つまり、戦後、皆伐した後の海上の森は、ほとんど人手が入れられず、自然の森林の遷移に任されて現在に至ったと考えられます。  当時を知っている方々に聞くと、しばしば海上の森は「禿山だった」というのですが、「禿山」と「丸刈り」とは根本的に違います。禿山は、表土がむき出しになって流出しているところであって、丸刈りは表土がむき出しになっていないで、草や小さい潅木などで覆われている状態です。禿山は表土が流出していますので、その回復には長い年月がかかります。それに対して、山の樹木を切って丸刈りにすると、自然に萌芽更新やドングリなどの種子によって芽吹き、10数年もすれば森林としてよみがえります。一般的には、里山林は15〜25年のサイクルで森を伐採しつづけてきたといいます。  ところで、海上の森の中で、禿山となっていたところは、屋戸川流域の砂礫層地帯に顕著に見られます。とくに著しいところは、銭屋鋼産のところに南から流入する広久手川の流域です。砂礫層で土壌層が薄いために、丸刈りにされた結果、表土が降雨によって侵食されて禿山となったものと推定されます。そこでは、尾根の部分が著しく禿山となっている他、山腹には山崩れによって禿山化されたところも見られます。その他の地域では、尾根の部分が禿山化しています。それは、屋戸川流域ほど厚く存在しませんが、尾根の部分に薄く砂礫層が乗っており、その部分が禿山化したと思われます。  戦後すぐに撮影された瀬戸市全域の米軍の航空写真を見る限り、禿山化が著しいのは、現在の陶磁器資料館や若宮町の聖霊学園などの海上の森を取り巻く周辺部であり、海上の森は相対的に見れば禿山化が激しく起こっていない地域です。当時の人々の記憶にある「禿山だった」というのは、樹木の伐採による丸刈り状態と禿山化とを同一視した結果であると推定されます  3)1965年の写真判読  次に、高度経済成長が始まった時期の1965年に航空写真が撮影されています。米軍の航空写真が撮影されてから17年も経過していますので、全体に山の樹木が大きく生長しています。この写真の顕著な変化は、海上の森の東部や南部地域の県有林のところどころにに大規模な皆伐が始まったことです。その後の写真を見ると、そこはスギ・ヒノキの人工林となっていますので、計画的に人工林の造成が行われたと考えられます。禿山だったところは著しく回復し、わずかに山の尾根部分に残っているだけです。56年頃からプロパンガスが入って、70年代には山から薪を取ることがほとんどなくなったといいますから、里山林に手が入らなくなったのはこの頃です。  この時期には、砂防用の池として篠田池が建設されて水を溜めています。その場所にあった田んぼは池となりました。他の田んぼ分布はほとんど変わりませんが、奥地では耕作放棄が起こったことが読み取れます。吉田川流域の河谷に沿う田んぼや、赤池の上流部の田んぼは放棄されています。聞き取りによれば、この数年前(1958年)にこの地に大きな集中豪雨があり、海上の里の東の山が崩れて家屋を押し流したことがきっかけで、数軒の農家が村を出ていったといいます。そのような耕作農民の減少が、田んぼ耕作を維持できなくさせたのではないかとも思われます。  海上の森の谷筋のいたるところに、砂防用の堰堤がたくさんあります。いかにも古そうな石組みの堰堤がありますが、それはわずかです。しかし、コンクリートの堰堤は異常なほどたくさんあります。おそらく高度経済成長期以降に、その多くが築堤されたものと思われます。それほど、丸刈り化によって、土砂流出などの被害が大きかったといえましょう。また、それらの砂防工事によって山が安定し、土砂流出や山地崩壊が減少したことが、かえって崩壊等による森の更新を少なくさせる結果ともなったと思われます。  4)1987年の写真判読  高度成長期に入ると、全国的に人工林の造成と山間部の農業の衰退が起こったことは先に述べた通りですが、海上の森でも例外ではありません。今から12年前の1987年の航空写真(カラー)では、人工林がさらに増え、現在とほとんど変わらない人工林の分布となりました。海上の里の南の山は皆伐され、スギ・ヒノキが植えられました。篠田池の北部の山にも、広い面積の人工林が植えられています。一方、広葉樹林はそのまま成長し、こんもりとした森になっています。ほとんど人手が入ったことがないような状況です。ただ、海上砂防池の北の山には、大木を切り残して皆伐した広い面積の森があります。物見台の林道が新しく作られていますので、その皆伐は林道の開通によって県有林の計画的な伐採作業であったと思われます。現在は人工のスギ・ヒノキと広葉樹の混交林になっていますが、人工林を切って雑木林にします。  田んぼは著しく減少しています。残っているのは、海上の里周辺だけであり、かつて耕作されていた山間部の田んぼはすべて消滅しています。それには、高度経済成長による都市化・工業化によって、農民が流出したことが大きな原因でしょう。耕作する主体がいなくなっては、田んぼは保てなくなるのは当然です。いわば、この地にも「過疎化」の波が押し寄せてきたと言えるでしょう。  以上のような海上の森の変遷から、他の里山にはない海上の森の特殊性を挙げるとすれば、「官」と「民」との管理が混在している森であるということです。江戸時代の尾張藩から受け継いだ県有林が広い面積を占め、藩とか県とかの大きな力によって、伐採も植林も大規模に管理されていました。一方、民有地の里山林に関しては、戦中・戦後の皆伐による丸刈り化の後、森に人手が入ることがほとんどなくなるなど、時代の農林業政策の変化に呼応して、激烈に変化してきました。その後、人工林の植林時代となり、海上の森の約3分の1は人工林となりましたが、それもすぐに木材の自由化により森林管理が行われなくなり、森の荒廃が進んでいます。現在の人工林の間伐の必要性は、県農地林務部の「瀬戸市南東部地域自然環境保全調査(人工林・常緑広葉樹林)」にも指摘されています。  戦後、官の政策により一斉に皆伐されたために水害や土砂災害をもたらしましたが、時代の状況があったとはいえ、山の管理としては大きな失敗でした。官の政策によって多大な被害を伴うものでありましたが、一方では、海上の森の3分の2が県有林であったため、「民」からの開発の圧力から免れてきたという効果もあって、海上の森が破壊されずに残されたとも言えると思います。  以上のように、わたしたちの調査で、愛知県全体の里山の中において、海上の森をふくむ猿投山一帯が連続した広い広葉樹林が繁茂し、地形地質構造から来るモザイク状に配置された多様な環境や貧栄養湿地の存在が、著しい生物の多様性を保持してきたことが分かりました。歴史的にも、官・民の管理の下、財政や生活と結びついて森林が姿を変えながら持続されてきた、興味深い地域です。しかし、今回の「官」による万博・新住事業や道路事業は、海上の森の歴史性を無視し、海上の森の自然を根底から破壊してしまうものです。このような変遷をたどった海上の森の里山環境こそ、今度は「官」を県から国に変わってもらって、国営の里山公園として整備して、後代まで末永く残したいと思います。 。.わたしたちの国営里山公園構想の提案 1.「国営公園」とは何か? 1)都市公園法の中の国営公園の利点 わたしたちは、海上の森の「国営公園」を目指しています。国営公園とは耳慣れない言葉ですが、それは何でしょうか。 公園や緑地というと、いろいろな種類があります。それは、設立の法的基礎が違うからです。国立公園、国定公園、都道府県立自然公園などは、「自然公園法」に基づきます。原生自然環境保全地域、自然環境保全地域などは、「自然環境保全法」に基づいています。その他、自然環境保全休養林などは、「森林法」に基づいています。それとは違って、国営公園というのは、「都市公園法」に基づいているのです。 「都市公園法」 第1条(目的) この法律は、都市公園の設置および管理に関する基準を定めて、都市公園の健全な発達を図り、もって公共の福祉の増進に資することを目的とする。 第2条(定義) この法律において「都市公園」とは、次に掲げる公園又は緑地で、その設置者である地方公共団体または国が当該公園又は緑地に設ける公園施設を含むものとする。 一、都市計画施設(都市計画法(昭和43年法律第100号)第4条第6項に規定する都市計画施設をいう(次号において同じ。)である公園又は緑地で地方公共団体が設置するもの及び地方公共同体が同条第2項に規定する都市計画区域内において設置する公園又は緑地 二、次に掲げる公園又は緑地で国が設置するもの イ 一の都府県の区域を越えるような広域の見地から設置する都市計画施設である公園又は緑地(ロに該当するものを除く) ロ 国家的な記念事業として、又は我が国固有の優れた文化的資産の保存及び活用を図るため閣議の決定を経て設置する都市計画施設である公園又は緑地  上に見るように、第二項のイ号公園というのは、県内だけでなく「広域の見地から」人を集められる公園です。愛知県では「木曽三川公園」があります。ロ号では、国家的記念事業とあります。万博は「国家的事業」ですので、「万博を記念する公園」としてはロ号が適用され、しかもわたしたちは「里山公園」を提案しているわけですので、里山の自然と文化の保全はまさに「我が国固有の優れた文化的資産の保存及び活用」にぴったりと適合します。  都市公園にもいろいろの種類がありますが、それを表にしたもの(表1)によって、国営公園の位置が分かると思います。国営公園は、現在までに16公園が整備を進めています(図1、表2)。そのうち、ロ号国営公園は、明治百年記念として作られた「国営武蔵丘陵森林公園」、奈良県飛鳥地方の古代の文化遺産の豊富な「国営飛鳥歴史公園」、沖縄で行なわれた海洋博覧会を記念した「国営沖縄記念公園」、昭和天皇在位50年記念の「国営昭和記念公園」、吉野ケ里遺跡の保存と活用をする「国営吉野ヶ里歴史公園」の五つです。  良好な緑地の保全には、自然公園法、自然環境保全法などによって地域指定を受けて実施する方法があります。しかしそれらの法律では、土地の所有権はそのままで、森林の伐採・地形の改変などの利用規制を行うだけなのです。それに比べて、海上の森を守るのに都市公園法がふさわしいのは、完全に国が土地を買い上げるところにあります。そうすると、土地利用規制や各種の制限を自由に加えることができるのです(たとえば、開園時間を朝9時から夕方5時までと定めるなど、入園の制限ができます。入園者から入園料を取ることもできます。マウンテンバイクの乗り入れ制限も規則を作ればできます)。海上の森の自然環境をより良好に保持するためには、そのような利用規制を容易にすることができる都市公園法がふさわしいと考えるからです。  「公園」というと、人工的に整備され、派手な遊具やレストランが客寄せをするイメージがあるかもしれませんが、そんな固定したものではありません。とくに、時代の流れが自然と環境を重視する方向に向かっています。都市公園法にはほとんど何も規制がありませんから、それぞれの地域の自然の特性を生かした公園を実現するのに、都市公園法がふさわしいのです。  2)愛知県、瀬戸市の行政にたずさわる皆さんへ  愛知県の財政は、職員の給与をカットせざるを得ないほどの窮状です。累積債務が増え続けていますし、景気が好転しない限り、税収の増加は見込めません。このまま行けば、財政再建団体になるとまで言われています。知事の議会答弁では、新住事業に500億円台のお金がかかると発表されました。道路事業にはいくらかかるのでしょう。万博事業にはどの程度のお金がかかり、愛知県の負担はどのくらいになるのでしょうか。バブル経済時代に乱発した県債の返済は、数年後がピークです。さらに万博等の借金(県債)は県民に大きなツケが回される事業であるのに、未だに資金計画すら発表されないというのは、納税者として納得が行きません。おそらく、万博・新住・道路事業の総計で、数千億円はかかるだろうといわれています。アクセスの悪い山奥に、大規模な住宅地を作るために大きなアクセス道路が必要になり、そのための造成費や道路建設費を巨額にしてしまうのです。  この国営公園構想は、愛知県の財政をこれ以上悪化させることはありません。都市公園の所管官庁は建設省ですので、国営公園は都市計画施設として、都市計画法によって公園化することになります。現在までに県が買い上げた民有地に既存の県有地を合わせて、総計540haを国(建設省)が買い上げます。これまでに民有地を買収した金額は約124億円といわれますが、それに県有地の買い上げ分を含めると、250億円くらいになるだろうといわれます。建設省にとっては、その気になればいつでも出せるお金です。その分、県財政の負担を軽減します。現在支出している県有地の維持管理に要する費用も軽減されることになります。  建設省も、時代の要請を受けて、その施策は大きく方向転換しています。これまでの箱物中心の建設行政から、「環境重視」の行政への転換です。まちづくりの行政においても、河川行政においても、道路行政においても、その転換が図られていることは、各地の実例を見れば明らかです。例えば、ダム等の公共事業の見直し、矢作川河口堰の中止の決定、河川法の改正、「清流ルネッサンス」などが挙げられます。今、愛知県が建設省に対してこの構想を提案すれば、建設省にはそれを受けやすい環境が整っています。この構想は決して「絵に描いた餅」ではなく、実現性があるのです。  この構想が実現すれば、公園の管理運営の費用も、建設省から出ることになります。わたしたちが視察した埼玉県にある「国営武蔵丘陵森林公園」の場合を紹介します。建設省からの整備費は、年々整備していきますし、その内容によって変わります。まったくない年もありますし、大きな施設を作る場合には、最高7億5千万円の整備費が出されています。維持管理費も年々増加して、1998年度では約10億円となっています(それには入園料大人400円の収入も入っています)。資料を入手した国営沖縄記念公園の場合は、海洋博覧会地区と首里地区とに分れています。海洋博覧会地区では、1998年度の場合、維持管理費は約16億4千万円、首里地区では約7千万円です。もちろん公園整備のための施設等整備費もあるのですが、その資料は入手できませんでした。  海上の森の里山公園構想が実現した場合に、どの程度の整備費と維持管理費が建設省から出るかは分かりませんが、上記の金額が一応の目安になるでしょう。地元の自治体、瀬戸市にとっては、雑木林の伐採・植栽作業や、下草刈りなどの作業、公園の清掃作業などは、その費用で地元雇用の作業員に支払われますので、地元の雇用機会が増えます。場合によっては職員の採用もあるでしょう。また、中規模あるいは小規模の建設工事なども、地元の企業に発注され、そのお金が落ちます。新住事業や道路事業は、大きな土木事業であるため中小企業では手に負えないので、大手ゼネコンが建設することになってしまい、地元に落ちるお金は少ないと思われます。  また、将来にわたって、下水道と下水処理、水道施設の建設・維持管理、あるいは学校や保育園などの建設・維持管理は瀬戸市の負担です。新住法では、それらの費用は自治体の負担になることが規定されています。どちらが地元瀬戸市の負担が少ないか明らかです。国営公園にした場合には、それらの費用はまったくかかりません。全部、国が持つからです。万博・新住事業・道路事業よりも、はるかに瀬戸市にとってメリットがあるのではないでしょうか。  わたしたちは、ことが長くその地に住む地権者の生活と権利に直結する問題ですので、先ず、地権者の意見を聞きました。地権者は、基本的にこの構想に賛成しています。具体的に土地を建設省に売り渡すかどうかはその時になってみないと分かりませんが、趣旨に賛同すれば快く買収に協力していただける方もいるでしょう。また、土地を手放したくない、そこで生活していきたいという方もいるでしょう。そういう方には、都市計画法においてその方の土地を「都市計画区域」からはずして計画決定をすれば良いのです。あとの細かな具体的問題は、地権者との話し合いです。決して地権者の土地を、土地収用法を適用して収用する必要はありませんし、してはならないことです。  他の多くの国営公園では、建設省の管理事務所と建設省の外郭団体である「財団法人公園緑地管理財団」に管理運営が委託されています。具体的には、それぞれの国営公園の「○○公園管理センター」が管理運営に当たります。都市公園法による許認可、基本的な調査、施設の大規模な維持補修工事については管理事務所が行い、植物、動物、建物や工作物等の施設、清掃などの維持管理、並びに利用者の指導、施設利用運営、催し物、広報などの運営管理は管理センターが行っています。わたしたちが視察した埼玉県の国営武蔵丘陵森林公園は、50名ほどの職員によって構成される管理センターが、公園の清掃、森林の伐採、草刈り、イベントの計画、保安対策などを計画的に実施しています。海上の森が国営公園となれば、建設省中部地方建設局の瀬戸海上の森里山公園管理事務所と国営瀬戸海上の森里山公園管理センターという組織がその管理運営に当たることになります  2.「国営瀬戸海上の森里山公園」の基本理念・目標と管理運営の原則  以上に述べてきたようなことを学ぶ中で、わたしたちは、以下のような基本理念・目標を設定し、管理運営の原則を定め、それに基づいて国営公園の構想を考えました。  1)基本理念  @ 自然に学び、「自然との共生」の思想を具体化する  A「里山自然と文化の保全」をコンセプト(基本理念)に公園化する  日本は、明治以降、西欧の科学技術を取り入れ、他のアジア諸国に先駆けて近代化を成し遂げました。西欧の科学技術の根底にあるのは、人間が自然を支配し、自然を人間が制御可能なものとして捉える思想です。自然は未開であり野蛮であり、人間が手を入れて制御することが文明である、という考え方です。人類は、そのような考え方で自然を征服し収奪してきました。しかし、開発が進み自然が失われるとともに、人が住めないような環境が出現するし、自然からの逆襲を受ける事態にまで至りました。大量生産・大量消費・大量廃棄によるゴミ問題,大気汚染、水質汚染であり、熱帯雨林の破壊、酸性雨・砂漠化など、生態系の破壊、地球温暖化など地球規模の環境問題の発生です。人類は生存の危機に直面しています。  近年は、その反省から、「自然との共生」という思想が生み出されました。それは、人間は自然の中で、自然の恵みに依存して生きてきたのであって、自然を支配し征服するというのではなく、自然に学び、自然と共存してしか生きられないという自覚です。その中から、自然のシステムを壊さないで「持続可能な社会」を築くことが課題となっています。科学技術はもちろん、生産のあり方そのものから、わたしたちの生活のあり方までを含む大きな変革を迫られています。  60年代以前の日本の「里山システム」は、まさに「自然との共生」であったのであり、現代社会の問題を見直す貴重な材料となります。そのような思想をもとに、里山システムを復活しようとするのが、この構想の基本理念です  2)目標  @ 生物多様性を保持すること  A 里山の民俗・文化を保全すること  B ゼロ・エミッションを実現すること  C 環境(里山)教育の場とすること  海上の森の多様で豊かな生物相の維持・保全を目標とすることは言うまでもありません。それと同時に、里山の民俗・文化を保全することが重要です。昔の里山は、自然の恵みを余さずに使い、ほとんど廃棄物を出さない生活でした。その廃棄物も、自然に還元できるものでした。つまり、ゼロ・エミッションの社会だったのです。それを目標にします。建物その他の生活用具は大地に還元可能なものを使用します。ここを訪れる人々に、そのような里山環境の意義を理解していただく教育が必要です。環境教育というのは、子どもだけに必要なものではなく、大人にも必要です。ここは里山ですので、環境教育というよりも「里山教育」(自然環境教育+生活環境教育)といわなければならないと思われます。  3)整備計画および管理運営の原則  @地権者・住民の意向を尊重すること  A 行政の主体性を確保しつつ、市(NGO)・研究者の参加による整備計画の策定および管理運営であること  当然のことながら長くそこに住み生活している地権者の権利が守られなければならないというばかりでなく、地域を熟知している人々として、整備計画や管理運営に参加することが重要であるからです。Aについては、ともすると整備計画や管理運営が行政主導となりがちですが、公園を利用する人々の意見や長く当地を歩いて動植物を熟知している人々、研究者として地域の自然や動植物を研究している人々の意見が取りいれられなければ、里山の自然と文化の保全という国営公園の目的が達成されないと考えるからです。実際には、行政・市民(NGO)・研究者の三者からなる協議会のような恒常的な組織を作って、整備計画や管理運営に当たるようにすることが必要となるでしょう  3.里山公園構想の具体化の基本的な考え方  以上のような組織と運営体制で、国営公園の具体的な運営をしていくことになります。それはあくまでも、先に述べた「里山自然と文化の保全」の基本理念を具体化することです。  1)海上の森の地域的特性を生かす  海上の森といっても面積が540haもあって、地域(流域)によって様々な特色があります。海上の里の周辺、北海上川の流域、南海上川の流域、屋戸川流域、吉田川流域など、地形・地質、植生、水系の流量、動物の分布、歴史的な文化財の分布など様々です。そこで、海上の森を特色を持ったいくつかに地域に分け、それぞれの特色が生かされる構想でなければなりません。  2)昔ながらの里山林の活用  1960年代以前の里山は、その里山林が生活財やエネルギー資源として利用されてきました。ですから、ただ単に山の木を切るだけでは維持できないので、それを利用する方法も同時に考えなければ、里山システムは完結しません。それこそ、ゼロ・エミッションにはならないわけです。炭焼き、薪としての利用、焼き物の窯の燃料としての利用などが考えられます。しかし、それは1960年代以前から行なわれてきた方法であって、現代ではそれほど大きな需要があるとは考えられません。しかし、宿泊施設などでは、暖房用・炊事用や風呂焚きに木炭や薪を利用していきます。  3)現代的里山管理  それを基本としつつも、さらに現代的な里山管理の方法を考えることが必要です。現代では、廃棄される樹木をチップにしてそれを燃やすことによって発電しその熱を利用する技術が開発されています。木質熱電供給システムです。これは環境への負荷も低いので、この構想に大胆に取り入れ、発電された電気によって施設の電力とするように考えます。それには、大量の木材が必要です。海上の森の伐採林だけではまかなえなければ、近隣の里山林を利用するなどすれば良いでしょう。それは、他の地域の里山をも復活させることにもなります。バイオ・エネルギーの開発も研究対象とすべきでしょう。他にもあるでしょうが、まだまだ山の樹木や竹を利用して採算が取れる技術は少ないのが現状です。それらを研究することが必要です。「里山公園」とはいっても、すべてが60年代以前にタイムスリップして里山に復元するというのではなく、現代的な里山林利用の研究・実用は重要な課題です。  4)生物多様性を損なわないための研究機能の重要性  しかし、注意しなければいけないのは、樹木を伐採することが海上の森の生物多様性を損なうことであってはなりません。どのように樹木を伐採すれば生態系を破壊することなく、生物多様性を維持できるのか、どのくらいの面積の伐採なのか、伐採時期はいつごろが良いのか、皆伐するのか樹木を選定して伐採するのか、選定して伐採するとすればどの樹種を切れば良いのか、下草刈りの方法はどうか、このような問題はほとんど分かっていません。伐採や除草・下草刈りを実施する前に、正確な生物調査を行い、伐採後も定期的な事後調査を実施し、どのように生物多様性が変化したのかを研究し、最も良い方法を見つけ出すことが必要となります。里山公園の管理運営と研究センターの研究とを有機的に結び付けて、より良い公園の運営がなされる必要があるでしょう。  つまり、この里山公園に重要なことは、研究機能を持たせることです。幸いにも、海上の森は広い面積を持っています。たとえば年に10ha(たとえば1haずつ10個所)伐採したとしても、全部を切るのに50年もかかります。全体から見ればほんの少しの面積であって、全域に大きな影響を及ぼすことはありません。少面積ずつその実験をしながら、より良い里山管理の方法を編み出すことができるならば、その成果は他の里山地域でも活用できます。つまり、この里山公園を、全国の里山管理の研究センターとして機能させ、発信をするのです。海上の森だけを囲いこんで保全し、他の里山についてはどうでもよいわけはありません。海上の森を質の高い里山公園とすることが、ひいては身近な自然を保全することにならなければなりません。  また、ギフチョウなどの貴重な昆虫類が、心ない昆虫マニアによって乱獲されています。捕虫網を持ち込み、貴重種や希少種を絶滅に導くことになることは避けなければなりません。しかし、虫採りは自然に親しみ、知る一つの方法として一概に禁止することはできません。そこで必要なのは、ガイドや観察会などの役目です。どうして、何を禁じるのかを理解してもらうのも、自然教育の一環です。  5)里山の民俗・文化の保存  先に述べたように、里山の自然と民俗・文化は一体となっています。その文化を保存し、構想の中に生かすことは極めて重要です。海上の里で使用されていた農具は、できるだけ実際の田んぼに使用する試みをします。それらの農具を作成・修理・展示する作業場が必要です。わらや竹は積極的に使い、海上の里や森で利用する方法を考えていきます。昔ながらのカヤぶき屋根の木造家屋を復元することも必要です。聞き取りによれば、海上の里ではカヤ場が少なくて十分に取れないので、二期作として小麦を植え、その麦・わらをふいて作ったと言います。また、神社の祭礼や神事を復興できる環境が生まれれば良いと思います。  6)公園の運営への市民参加の実現  公園の運営については、計画段階から市民参加で行うことは先に延べました。さらに、公園の維持管理にも市民参加を原則とすることです。田んぼの田起こし、田植え、草刈り、稲刈り、脱穀などの作業、山林の伐採、下草刈りなど、センターが市民ボランティアを募集して市民と共同で行うことです。本来は、里山の住人が行う作業を、よそ者の市民が行うわけです。作業を通じて、よそ者がしばしの住人になることは、意味があることではないでしょうか。それは、都市住民にとって、まさに自然に触れ、一過性でない自然体験そのものになります。現代はそのような自然体験が求められているのです。  7)子どもから高齢者・身障者への配慮  最後にもう一つは、やはり公営の「公園」ですので、子どもから高齢者まで誰でも利用できるものにしなければなりません。青年や大人ばかりが楽しめる施設とするのではなく、子どもたちが安全に遊べる場所であり、遊びながら環境教育の場として利用することも当然考えられます。身障者や高齢者が車椅子でも散策できる場所であることも必要ですし、そのための施設や工夫が必要です。実際に,目の不自由な方々が,10月上旬に歩きに来ています.沖縄記念公園では,身障者や高齢者のために、一部の園路に100円で低速の電気自動車を走らせているそうです。また,身障者には入園無料にしています.マウンテンバイクと歩行者が狭い道を共有するのは危険性があるので、専用道路を設けるとか、歩道を分離するとかの対策を考えなければなりません。  8)「自然と共生する景観」を作り出す  いかに生物多様性が保持されたとしても、市民がそこに出かけたくなるような場にしなければ、市民に歓迎されません。しかし、今までの公園のように、不特定多数の市民におもねることでの美しさを追求するのでは困ります。人間が王様になるのではない「自然と共生する景観」とでも呼ぶ美しさを市民と行政が合意して作る出すのです。  4.里山公園ではどんなことをやるのか?  里山公園で行うべき業務としては、考えられるだけでも次のようなことがあります。  1) 海上の里の田んぼ耕作と管理、放棄された田んぼの復活、無農薬・有機農業  里山の基本は田んぼです。美しく刈られた畦、階段状に耕作された棚田、たわわに実り穂を垂れる稲穂、カエルやタガメなどのいる田んぼ、アカトンボやチョウの舞う田んぼ、田んぼに舞い下りるサギなどの鳥類の姿、それらの復活は、生物の多様性イコール美観といえるのです。もちろん、無農薬・有機農法によります。60年代以前は農薬も殺虫剤も消毒薬もありませんでした。農薬使用は、田んぼの生態系を破壊してきたのですから、手間ひまがかかっても、それが守られなければなりません。絶滅したコウノトリもその犠牲者です。  2)里山林の手入れ  里山林の手入れは欠かせません。皆伐が良いのか、選択的伐採が良いのか、詳しく研究する必要はあるものの、森の木を利用することによって里山林が成立してきたのですから。基本的には樹木を切ることから出発するべきです。どのような目的で切るかによって、炭焼きによる炭の生産、陶磁器生産のための燃料、建築用材・家具用材、竹細工の材料として竹林の伐採などは従来から行なわれてきたものです。前述した現代的な里山林利用も考えていかなければなりません。炭焼きに関しては、木酢生産も視野に入れておく必要があるでしょう。竹林も、早く利用する道を考えないとはびこるままになります。竹細工製品の生産も重要になるでしょう。竹の炭がいろいろの用途に使われるようになりました。竹炭生産も実施することにしましょう。竹は1年間に10〜15mにも成長します。他にはそのように成長の早い植物はありません。  3) 水辺の管理  池沼や河川などの水辺の管理も重要な要素です。池沼や各河川の水辺は多様な生物が集まる重要な環境ですが、また人にとって景観が重要な環境でもあります。池の広々とした景観や歩きながらかいま見える流れの様子などは海上の森の貴重な要素です。多年草を主とした背の高い雑草の群落が一様な景観を作らないように、流れや地形の管理が必要です。しかし、今の状態が保たれていくためには、小規模な洪水や土砂の流出も必要になる、という大きな問題を含んでいます。また動物が隠れるような低木や背の低い水辺の植物も、水辺の生態系には重要な要素です。アシやガマのような大型の雑草の群落も、規模や人との距離によっては必要になってきます。  帰化植物の侵入は大きな問題ですが、抜き去るなど積極的に排除しようとすると、更なる撹乱を引き起こし、イタチゴッコとなる恐れもあります。火入れや草刈りなどの管理や池の水位の管理などを試みるべきではないでしょうか。森林の生態に比較すると、草地の生態系は撹乱による変化が大きい存在です。景観に大きな影響を与えるのは、自然生態の変化とともに人による撹乱があります。水場に近寄る場所を整備するとともに、柵や水量の管理によって人が入る範囲を制限することも重要だと思います。視線の方向が制限されることによって、景観のみならず生態系全体の保全も図られるものと考えます。  4)自然観察会、探鳥会など  環境問題が大きくなるに連れて、自然観察を目的にした市民グループが各地に誕生しています。自然観察会や探鳥会などです。公園運営には、これは当然取り入れて市民団体と共同の企画運営をすることが必要です。またそのための指導員を養成する必要があります。松茸やきのこが生える環境を整えたり、山菜取りなどの企画も里山とのつながりを楽しく学ぶチャンスにします。  5)体験の伴った環境教育の場へ工夫  せっかく豊かで広い身近な自然学校があるのですから、体験し、感じることを中心にした楽しい環境教育の場として利用しましょう。合い言葉は、「自然はわたしたちを助けてくれています。だから今度は、わたしたちが自然を助けるのです」。田んぼや畑、山仕事、陶芸職人などのベテランを先生に、子どもも大人もいっしょに学びます。田んぼをしたり、木を切ったり、土をこねたりのすべてに、自然を知るというプログラムがごく自然に入っています。大人が作って提供する冒険の森ではなく、解放区のような自由な空間と秘密の場所を、子どもたちにプレゼントできるのではないでしょうか。  6)穴窯よる里山の利用の再現  海上の森には、古くは平安時代から鎌倉時代の穴窯の跡があります。その発掘成果は瀬戸市の民族資料館や近くにある愛知県陶磁器資料館に展示してあります。資料館的展示はそちらに任すことにして、そこではできない穴窯の再現をしてはどうでしょうか。穴窯をどういう条件で作り、土はどこで掘ったのか。作った焼き物はどのようにして運んだのかを探りながらの再現は、海上の森という自然と文化の歴史を学ぶことになるでしょう。同時に、切った木を使う方法の一つにもなります。今は作られなくなった穴窯の再現は、瀬戸物の発祥の地である瀬戸市の伝統の記憶を前に向かわせることになるでしょう。瀬戸の市街地を結び付ければ、まちづくりとしても楽しい試みです。  7) 海上の里の民俗・文化の展示、多度神社の馬追い神事の復活  海上の里の昔からの屋根の木造家屋は、里山の文化そのものです。その復元は昔の里山を知るために是非とも必要であり、そのような民家に農具や神事に使う道具などを収納・展示することがふさわしいことです。そこでは、竹細工やわら細工などの作業も企画したら楽しいと思います。海上の里では、今は途絶えていますが、戦前は年一度の祭礼として、多度神社の馬追い神事が行なわれていました。それを復活して、海上の里の大きなイベントになれば、市民と一緒に楽しむことができるでしょう。  その他、たくさんあると思いますが、必要ならば、市民の提案を募って実施したらどうでしょうか。公園としては、それらのメニューを作成し、入園者の意向に合わせて園内を利用できるようにする工夫も必要です。 入園者や瀬戸市民の夢を大きくふくらますことができます。  5.生物多様性を保持するための里山林の生態学的な管理方法の研究  生物多様性を維持するためおよび里山管理のための研究機能が重要であることは既に述べました。里山に関する壮大な実験をしながら研究していく機関です。そこで、「海上の森里山研究センター(仮称)」を設置します。そこには、生態学や林学・農業の研究者を配置して研究します。その研究課題としては以下のようなことが考えられます。  ★ 雑木林の管理 その方法は? 面積は? 伐採時期は? 伐採林の利用方法は?  ★人工林の管理 間伐と間伐材の利用方法など  ★ 伐採の方法と時期 伐採前後の生物・生態調査など  ★草地の管理 伐採方法とその時期、刈り方など  ★ 水辺の管理 トンボやホタルの生息環境保持、池沼の水質管理など  ★ 60年代以前の里山の管理方法を調査・研究する。海上の里、山口町だけでなく、全国に 寄与するように。  はじめのうちは、実験をしながら伐採・下草刈りの方法などを検討します。そのためには、生態学(植物、動物、昆虫など)や林学の専門家の配置が必要です。  6、必要となる施設  以上のような業務を行うために必要な施設は、次のようなものがあります。  ★管理施設 国営瀬戸海上の森里山公園管理事務所および管理センター  ★研究施設 「海上の森里山研究センター」(仮称)および「生物多様性研究センター」など  ★一般入園者のための施設(道路整備、遊歩道整備、トイレ、売店、案内所、電話、駐車場、休憩場など)  ★環境教育・ボランティア活動のための宿泊施設  ★海上の森の民俗文化を再現し、作業をするための施設  ★竹細工・わら細工工房、陶磁器制作工房、炭焼き窯(竹材を含む)  ★子どもたちのための森の遊具、川遊びの施設建築物は、すべて海上の森の樹木を伐採して利用する計画を立てます。少しでも多く、伐採した樹木の使用先を確保するためです。遊歩道などの整備にも、間伐材を使ったり、木材チップ舗装にすることも考えることができるでしょう。  7.海上の森の里山公園の整備計画  さてそこで、以上のような考えをもとにして里山公園の具体的な整備計画となります。基本的には、今のままの状態を保ちながら、園内の各地域の特色・魅力のポイントを考慮して5つのエリアを考えてみました。公園の中心的施設は、銭屋鋼産跡地に集中させます。  1) 海上の里の生活の息吹を伝えるエリア  海上の里を中心に、ため池を復活し、田んぼを隅々まで耕作し、棚田を復活させます。周辺の里山林を手入れして美しい里山を再現します。ここでは、完全に1960年代以前の時代にタイムスリップするのです。60年代以前といっても、電気が使用できないような江戸時代にさかのぼることまでは考えていません。そこでは、「現代」を持ち込みませんが、電気は木質発電施設で発電した電力を使用できるようにします。田んぼ耕作などに参加する市民は、田植機・稲刈り機、草刈り機を使用しないで、手作業で行います。しかし、耕運機を使わない田起こしの労働は大変きつい仕事です。耕運機くらいは必要でしょう。裏作には、大麦・小麦、油菜、一部はレンゲ草を植えます。  昔は水洗のトイレも無しで、その糞尿は肥溜めに入れて肥料として使いましたが、そこまでタイムスリップするのはどうでしょうか。現在は土壌浄化法など、し尿や雑廃水の浄化には大変すぐれていて、河川や池沼の富栄養化が起こらなくてもすみます。宿泊施設や各地に散在するトイレの糞尿処理は、それを採用したらどうでしょうか。風呂も薪で炊きます。つまり現代の便利さを排除して、当時の耕作や里山の生活を再現し、昔の人々の労働の現実をも少し体験します。  周辺の里山林には、2、3個所の炭焼き窯を設置し、伐採された里山林を使用して炭の生産を行います。そこでは、炭焼きの実際を市民が体験できるようにします。木酢の生産も同時に行います。竹炭の生産も行います。現在、海上の里の南の一部の県有林は三河高原国定公園となっていますが、その人工林を伐採して雑木林に変えます。伐採したスギ・ヒノキで、海上の里の民家や宿泊施設、民俗・文化資料館などの建築用材として用います。  現在、海上の集落を通っている市道は、海上集落のタイムスリップエリアには似つかわしくないので、元のとおりに大正池の南側の林内を通って四ツ沢に抜けるようにします。その際、大正池の景観を損なわないように配慮します。海上の里へは、住民のほか物品の運搬などの許可車以外は通さないようにします。  2) 大正池・篠田池 雑木林の水と木と風を楽しむエリア  北海上川流域は、大正池(海上砂防池)と雑木林の美しい景観を大切にします。大正池の南およびものみ台の林道沿いの人工林は、伐採して雑木林に変えましょう。落葉広葉樹林も、常緑の樹木が入り込み、遷移が進んでいるところがありますので、伐採が必要です。物見台から篠田池、四つ沢の地域には針広混交林の間に大きなツブラジイが切らずに残されています。このままの景観を残してゆきたいものです。  3) 屋戸川流域の貧栄養湿地 貴重種に出会えるエリア  屋戸川流域、吉田池の流域、東広久手川流域は、厚い砂礫層が堆積している地域で、その地下水による貧栄養湿地が多数存在しており、そこに貧栄養湿地独特の貴重植物群や昆虫が生育しています。生態学的に重要で繊細な生き物は、とくに人の入り込みや関わりに大きな影響を受けます。いわば海上の森でも、人体の眼のような場所に当たりますから、とくに注意が必要です。日照条件の確保のための樹木の伐採・人の踏圧をどうするか、景観を壊さない形での整備を考えていく学術的な配慮が重要です。日照条件を良くするために、また遷移が進まないように樹木の侵入を防いだり、腐植土が溜まらないように清掃したりする管理が必要です。  4) 物見山周辺 人工林と見晴らしの良い高台のエリア  物見山からの景観は武田信玄の伝説とともにたいへんよい眺望です。その眺望を遮るヒノキなどは伐採して、七つの城が見えたという昔を再現したいものです。また、標高の高い海上の森の東部の山地から物見山に抜ける尾根沿いには、大正時代から植えられた県有地の人工林が広く分布しています。そこは、人工林の保全エリアとします。現在は、間伐が不十分であり、下草が生えないほど暗い森になっているところがありますが、その間伐を実施して、美しいスギ・ヒノキの人工林として保存し、活用します。つまり、このエリアは、建築用材の供給地域とします。  5) 吉田川流域 鳥の声、水の音、そして静けさを楽しむエリア  吉田川流域はうっそうとした広葉樹の森が広がっており、海上の森の他の地域にも多いのですが、とくに鳥類の種類が豊富で、美しい鳥の鳴き声がいつも響き渡っています。赤池までは峡谷をなし、それも海上の森の美しい景観を構成している重要な要素です。川沿いは薮が茂ってしまい、川の清流が見えないところが多くありますが、薮も小鳥たちの隠れ家になっていますので、生き物に配慮した雑草管理が必要です。  生物全体のつながりではなく、鳥にだけ目を奪われて、人工的に鳥が好む実のなる樹木を植樹するなどはしたくないと思います。吉田川左岸からの支流も薮になっています。また常緑樹が入り込み、かなり暗い森になっています。生態系に配慮しながら、時には大胆に樹木の伐採など手を入れる必要があるでしょう。生物多様性は、様々な異なる環境がモザイク上に配置されていることによって成立するといわれます。吉田川の赤池よりも上流地域に、かつての田んぼを復活し、樹木の伐採と合わせて、多様な環境を生み出すことが、鳥類の生息環境に必要なことです。  6) 古窯・古墳 歴史・文化・生活を今に生かすエリア  海上の森の西部には、古窯や古墳がたくさんあります。それらの文化財を十分に活用しましょう。現在の銭屋鋼産の北の地域の古窯の発掘現場を保存するとともに、古い構造のまま穴窯を再現し、そこで焼き物の歴史をひも解く実験をするのはどうでしょうか。陶芸家の協力を得て、穴窯による今と昔の作品の展示などができるような施設も必要になると思います。ただ、観光地を彷彿させるような施設は作りたくないと思います。  8.エリア配置プラン  以上のような整備計画により、具体的なゾーン配置計画と施設配置計画を、図のように考えてみました。土を踏みしめて歩いているうちに、次々に自然に海上の森の魅力のポイントに出会えることを意図しました。  エリア配置の境界は、きっちりとした境界線ではなく、およその区分線です。施設配置計画は、銭屋鋼産跡地に集中させて、管理事務所とセンター・里山研究センターを置きます。管理センターには、事務室の他、講演会や会合に使う集会室をいくつか作ります。研究センターは、研究者の研究室の他に各種の分析を行う分析室や実験室が必要です。吉野町の砂利取り場付近に、木材加工工場や木質発電の工場を作ります。しかし、これは決定したわけではありません。吉野町の静かなたたずまいをそのままとするために、むしろ銭屋鋼産跡地という公園のエントランス部分に、多くの人々に見てもらえるように木質発電所を作っても良いかもしれません。  宿泊施設は、海上川の四ツ沢のやや上流部の場所に、木造カヤぶきの農家風の建物とし、50人くらいが宿泊できる棟を二つくらい作る必要があると思います。海上の里にも、丘の上に同様の宿泊施設を作ります。里の民家跡には、海上の里の「歴史・民俗資料館」を作ります。陶芸エリアには、穴窯を設置し、陶芸工房を作ります。また、里の東部の山には、炭焼き窯と炭焼き小屋を作ります。入口は、銭屋鋼産のメインゲートの他、吉田川ゲート、東山路町から入る東ゲートと篠田川から入る北ゲートを設けます。  入口の他は人が入り込めないような山を除いて、周囲を柵で囲います。ゲートの近くには駐車場を配置します。大きな駐車場は、メインゲートの管理センター前に約200台分、その南に約200台分を配置します。北ゲートおよび東ゲートにはそれぞれ約30台分、吉田川ゲート付近には約100台分の駐車場を確保します。  幹線園路は、アスファルト舗装はせず、原則として一般入園者の自動車の乗り入れはできないようにします。幹線園路の役割は、地権者の生活のためおよび公園の維持管理のための物資の輸送用道路として、ほとんど現在のままの状態を保ちます。またそれは、森林の伐採・運搬のための林道としての役割をもっていますので、待避場所などを増やす必要がありますし、狭くなっているところは拡幅する必要があるでしょう。現在の里から大正池への道路は遊歩道とし、現在それは市道ですが、封鎖します。東山路からの道は大正池の南に道路を通して四ツ沢の林道に入れるようにします。現在、篠田川沿いで篠田池までは車が通れる道はありませんが、森林維持のための幹線園路を通し、篠田川の南の林道とつなげます。  一般入園者のためのトイレを数箇所(四ツ沢、赤池、海上の里、物見山、篠田池、大正池の付近)の他、各ゲートにも設置します。現在の散策路はそのままにし、道案内版を立てます。貴重種ゾーンでは、湿地保護のための木道などが必要です。また、約500mに一個所程度の休憩所を作り、木製のベンチとテーブルを置きます。見晴らしの良いところなどには(物見山、物見台、三角点、五輪塔など)、木製のベンチやテーブルくらいは設置したいです。  これらの施設・園路・遊歩道などの建設には、オオタカなど鳥類やほ乳動物の営巣を配慮し、営巣期間をはずして工事をすることは言うまでもありません。また、貴重な植物など、その生態を配慮して工事することも言うまでもありません。入園者の安全を配慮して、その工事は土曜日や日曜日の入園者が多くなる時期は避けることが必要です。また、鳥類の営巣に配慮して、特定の営巣期間については、特定の場所や特定の遊歩道を立入禁止にする必要もあります。  実際にこの里山公園構想が行政当局に承認された場合には、さらに細かく計画を立てなければなりませんが、それは承認されてからの話しですので、これ以上の深入りは避けたいと思います。 おわりに―今までなかった新しい「里山公園」の提案  皆さんは、この里山公園構想をどのように思われたでしょうか。「公園」というイメージとは大分違うことを感じられたかと思います。一般的に現在の公園の大部分は、自然の森を切り払い、芝生を植えたり、池を造って庭園風にしたり、プールやスポーツ施設を整えたり、植物園や動物園を作ったり、サイクリングロードを巡らせたりしています。レジャーランドのような公園が多いのは事実です。わたしたちはそのような公園もあって良いと考えます。  しかし、この里山公園は、既にあるの「公園」のイメージでは、せっかくの価値を壊してしまいます。わたしたちの構想は、海上の森の里山の自然と文化を最大限尊重した公園です。新しい概念の「公園」です。こういう公園があっても良いのではないでしょうか。ありのままの身近な自然とそのふれあいが見直されつつある時代です。そのような時代の要請を受けて、これからは、ありのままの自然の姿を大切にし、その地域の自然や文化の特性を最大限生かす特色ある公園が誕生してくると思います。この構想は、その第1号にしたいと考えています。  愛知県や万博協会が計画している万博事業は、「自然の叡智」「自然との共生」を万博の理念としているにもかかわらず、海上の森の中心部分を破壊する計画です。その理念がまったく生かされていないどころか、明らかに矛盾しています。計画では、里山の景観が残る海上の里を潰し、篠田池の周辺に里山を復元することにしています。現在は休耕田が多い海上の里の棚田を、世界の人々に見てもらうのでしょうか。今ある里の棚田を隅々まで復活し、周囲の里山林をよみがえらせ、「自然との共生」「持続可能な社会」のひな形を世界の人々に見せることで、はじめて日本の里山文化を理解してもらうことができるのではないでしょうか。なぜそれをしないのでしょうか。日本の里山自然と文化は、東アジアや東南アジアがルーツです。機械化によって草原や河畔の木本がなくなり、川がまっすぐにされたりと、身近な自然が消失していくという問題を抱えているのは、欧米も同じことです。里山という自然のあり方を題材に発信し、呼応しあえるはずです。  わたしたちは、万博の理念を忠実に具体化するならば、海上の森の里山環境を整備してそれを出展することが正しい選択であると考えます。2500万人もの人々を海上の森に入れるのは、環境に過大な負荷を与え、土台無理な話しです。海上の森には1日1000人程度を限度として入場規制をし(県の調査では、ゴールデンウィークの最大入場者が約1000人です)、主会場を愛知青少年公園に移し、そこでヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)の技術を使って海上の森を再現すれば、海上の森に負荷を与えないでもすむと思います。そして、コンピュータ・テクノロジーを駆使して、世界の里山とのリアル・タイムのネットワークを作り出すというのはどうでしょうか。万博協会のコンベンションで最優秀賞に選ばれたのも、そのような案でした。そして主会場では、世界各国の自然との共生への取り組み、ゼロエミッションへの最新技術などを展示してもらうのです。そこで、その分野で貢献できる日本の進んだ技術を、世界に披露したらどうでしょうか。  わたしたちは、万博構想全体の中に、海上の森の里山自然と文化を位置づけていけば、万博の理念に忠実で、しかも日本が世界の人々に発信できる実り豊かな万博を開催できると考えています。それには、愛知県をはじめとする行政当局が、これまでの新住事業・道路事業をやめ、海上の森からの「勇気ある撤退」を決断してほしいと願わずにはおれません。  わたしたちは、一人でも多くの方々に、行政当局の現計画とは別に、市民の手によるこのような里山公園構想が提案されていることを知っていただきたく、この文書をしたためました。この里山公園構想を十分にご理解くださり、自分なりの構想と願いで、どうぞご参加くださいますよう心からお願いいたします。 【参考文献】  わたしたちは、国営里山公園構想の検討をするのに、多くの文献や行政資料を参考にしました。その全部を載せることはできませんので、参考にした主要な文献を以下に載せておきます。 室田 武著:『雑木林の経済学』 樹心社 1983年 田端英雄編著:『エコロジーガイド・里山の自然』保育社 1991年 田端英雄:木質熱電供給システムによる里山の持続的管理を−新しい農業・新しい林業−。科学、69、No.1、1999年 田中治夫著:『伐って燃やせば「森は守れる」』 洋泉社 1999年 半田真理子著:『都市に森をつくる−私の公園学』 朝日新聞社、1985年 中川重年著:『再生の雑木林から』 創森社、1996年 石井 実・植田邦彦・重松敏則著:『里山の自然を守る』 築地書房、1994年 石亀泰郎著:『さあ森のようちえんへ』 ぱるす出版、1999年 今泉みね子著:『みみずのカーロ シェーファー先生の自然学校』 合同出版、1999年 遊磨正秀著:『ホタルの水、人の水』 新評論社、1996年 日本エコミュージアム研究会著:『エコミュージアム・理念と活動』 牧野出版、1997年 社団法人農村環境整備センター:「農業農村の多面的機能を活用した環境教育『田んぼの学校』のすすめ」、1999年 四手井綱秀著:『森林』法政大学出版局 松山利夫著:『木の実』法政大学出版局 室井 綽著:『竹』法政大学出版局 宮脇 昭著:『植物と人間(植物社会のバランス)』NHKブックス109、1970年 市川健夫・斎藤 功著:『日本の森林文化』NHK ブックス481,1985年 (財)三重県環境保全事業団:『里山のふれあい――三重の希少な野生生物――』、1993年 篠原 徹著:『自然と民俗――心意のなかの動植物――』日本エディタースクール出版部、1990年 西田興四郎著:『村とその生活』東洋図書、1950年 芦田輝一著:『樹の文化誌』朝日選書、1985年 四手井綱秀著:『森の生態学――森林はいかにして生きているか――』講談社、1976年 神山恵三著:『森の不思議』岩波新書、1983年 山村恒年著:『自然保護の法と戦略』有斐閣選書、1989年 柴谷篤弘著:『構造主義生物学』東京大学出版会、1999年 沖浦和光著:『竹の民族誌』岩波新書、1991年 黒川紀章著:『建築論氈|日本的空間へ−』鹿島出版会、1982年 隈 研吾著:『新・建築入門』ちくま新書、1994年 隈 研吾著:『建築的欲望の終焉』新曜社、1994年 花崎皋平著:『アイデンティティーと共生の哲学』筑摩書房、1993年 愛知県:『愛知県の林業史』1980年 愛知県農地林務部:「瀬戸市南東部地域自然環境保全調査(人工林・常緑広葉樹林)」1993年 愛知県農地林務部:「瀬戸市南東部地域自然環保全   保全調査査(湿地)」1993年 愛知県環境部:「里山自然地域保全事業全県調査報告書」(平成9年度、15万分の1 付図)1998 年3月 愛知県農地林務部:「愛知県林相図」(平成元年(1989年)、15万分の1付図)1989年 愛知県農地林務部:「愛知県林相図」(昭和33年(1958年)20万分の1付図)1958年 財団法人2005年日本国際博覧会協会:「2005年日本国博覧会に係る環境影響評価準備書」(平成 11年2月)1999年 愛知県土木部:「名古屋瀬戸道路に係る環境影 響評価準備書」(平成11年2月)1999年 愛知県建築部:「瀬戸市南東部地区新住宅市街地開発事業に係る環境影響評価準備書」平成11年2月)1999年 菊地多賀夫・植田邦彦・後藤稔治・佐藤徳次・高橋弘・高山晴夫・中西 正・成瀬亮司・浜島繁隆::周伊勢湾要素植物群の自然保護。自然保然保護助成事業報告書、No.8806、1991年 海上の森ネットワーク:「1996年版海上の森調査報告書」 1995年 (財)日本自然保護協会:「小さな自然かんさつ―こどもと楽しむ身近な自然」1996年12月 (財)日本自然保護協会:「2005年愛知万博構想を検証する―里山自然の価値と海上の森―」、1997年6月 河合雅雄著:『子どもと自然』、岩波新書、1990年 河合雅雄著:『少年動物誌』、福音館書店、1976年 河合雅雄著:『森の歳時記』、平凡社、1998年 鷲谷いづみ著:『サクラソウの目』、地人書館、1998年 ケビン・ショート著:『ケビンの里山自然観察記』、講談社、1995年 【資料1】万博・新住・道路事業の経過年表 【資料2】瀬戸周辺および海上の森の年表 あとがき  わたしたちの「国営瀬戸海上の森里山公園構想をすすめる連絡会」は、海上の森破壊から守るために国営公園構想に賭けてみようという有志の集まりです。8月中旬に発足して以来3ヶ月間にやってきたきことは、約10回の会合、建設省や環境庁への陳情、役所を回り歩いての行政資料の収集、地権者との話し合い、地権者からの聞き取り調査、海上の森の航空写真判読・図化、最終的な文章内容の検討などです。めまぐるしく忙しい3ヶ月でしたが、大変多くのことを勉強しました。  この構想の基本的事項はすすめる会の中で合意していますが、細部については煮詰められていない点があります。その意味で、これは完成品ではありません。今後の議論のスタート、たたき台であると考えています。11月23日(勤労感謝の日)の市民集会がこの構想のお披露目となるわけですが、多くの方々の意見を取りいれて、さらに良い案にしたいと考えています。どうぞ、ご意見をお寄せくださる様、お願いいたします。  1999年11月8日  市民が提案する「国営瀬戸海上の森里山公園」のマスタープラン     発行   国営瀬戸海上の森里山公園構想をすすめる連絡会  連絡先 森山昭雄 〒444-0077 岡崎市井田町茨坪34-320  Tel & Fax 0564-23-3882 E-mail:moriakio@sinfonia.or.jp