市民が提案する
「国営瀬戸海上の森里山公園」のマスター・プラン

 

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 2.里山としての海上の森の歴史がもつ意味


 
 さて、海上の森の昔の自然環境や土地利用を復元するために、日本で始めて撮影された米軍の航空写真(1948年撮影、敗戦の3年後の8月撮影)を判読して、海上の森の土地利用図を作成しました。それをもとに、戦中戦後から1960年頃までの里山利用の状況について、長く海上の森に住んでいる方々からの聞き取りを行いました。さらに17年後の1965年に撮影された航空写真および1987年撮影の航空写真を判読し、その変化を読み取りました。それをもとに、里山としての海上の森の昔の姿を復元し、その変化を考察してみました

 1)海上の森の里山林はどのように利用されていたのか?

 先ず、海上の森の土地所有関係とその利用の歴史をひもといてみました。末尾に資料として、「瀬戸周辺および海上の森の歴史年表」を付けておきましたので参考にしてください。
 海上の森の大部分は、江戸時代には尾張藩の御料林で、海上の里や平地の山口村の周辺部だけが地域住民の民有林でした。その森林は、「御留林」であり、藩の許可なく伐採は禁じられた、クロマツが植林された山でした。それは、藩の重要な産業である瀬戸焼き窯の燃料用の樹木の供給地でしたから、火力の強いクロマツが植えられていたわけです。そして明治になって、御用林は愛知県の県有林となりましたが、その関係は現在に引き継がれています(最近は万博・新住事業のために用地買収が行われ、さらに県有林が増えました)。ですから、海上の里周辺の民有地と山口村の民有地を除いて、海上の森のほとんどはクロマツ林に覆われていたのです(もちろん広葉樹も少しは生えていたでしょうが)。ですから、当時は山のどこでも松茸が取れたということです。

 また、聞き取りによれば、炭焼きをしていたのは戦前であって、当時、炭は政府の統制品であったので、許可なく製造・販売はできず、県が大きな炭焼き小屋と窯を作って大量に炭を生産していました。それはかなり大掛かりな炭焼き窯であったといいます。それが海上の里の東の山に3個所ほどあり、農民は山から木を切り出す仕事をしたとのことです。そして、その後にスギ・ヒノキを植林しました。しかし、戦後は炭焼きはほとんど行っていなかったとのことです。

 戦中・戦後になって、燃料不足と建築用の木材需要が高まり、日本全国どこでも里山の森林が一斉に切られました。海上の森も例外ではありません。この地域では、戦後に山の樹木が切られたとのことです。また、陶土を取る坑道に使う坑木の切り出しも、県の事業として大々的に行なわれたそうです。山口村の人々は、山の薪を束ねて名古屋まで売りに行った人々がいたと記録されています。海上の森が特殊なのは、瀬戸物を焼く燃料であった石炭が入手できなくなり、県有林のクロマツが一斉に切られて瀬戸焼きの窯の燃料にされたことです。そのために、海上砂防池や篠田池の周辺および吉田川下流部の山はほとんど皆伐され、丸刈り状態になったといいます。現在クロマツはほとんどありませんが、それは伐採された跡に自然にアカマツが侵入したものと思われます。

 当時、農民は県に雇われてその仕事に当たったわけですが、「シデコブシとかサクラバハンノキとかまったく知らなかったので、とにかく切って切って切りまくった」と語っていました。そのように森の木を切ることで萌芽更新によって森が再生するのです。森の木を切ることが、里山の自然を維持することになったのです。しかし、ここで注目したいことは、木を切るといっても根っこはそのままであり、表土がはがされたり、地形が改変されるようなことはありませんでした。江戸時代は、薪の不足のために農民が樹根まで掘り取るために、ひこばえ株(切った後に出てくる若芽)や樹根の掘り取りを禁じるお触れが出たこともあったそうです。

◆萌芽更新 広葉樹は、木を切るとその脇から自然に芽が出て大きく成長します。それを萌芽更新と呼びます。根元から分れて株立ちしている樹木を見かけますが、それは萌芽更新によって成長した樹木であることが分かります。

 

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