市民が提案する
「国営瀬戸海上の森里山公園」のマスター・プラン

 

Page
8


 2)1948年の航空写真の判読による海上の森の土地利用


拡大版はここをクリックしてください

 1948年の航空写真は、戦後すぐの時代の海上の森を写し取っています。米軍の写真を見て先ず気がつくことは、田んぼが今よりもずっと広く広がっていたことです。海上の里の田んぼは現在よりももっと広く、隅々まで田んぼでした。さらに、海上川下流の谷沿い、四ツ沢、現在の海上砂防池(当時は存在しなかった)とその上流地域の河谷沿いに広く分布していました。銭屋鋼産の跡地も、すべて田んぼでした。篠田池は当時は存在せず、池のほとんどは田んぼとして利用されていましたし、その上流地域にも広く田んぼがありました。屋戸川流域の下流部も田んぼでした。驚いたことに、吉田川の河谷にも、その谷沿いに細長く田んぼがありました。第2広久手池(赤池)の上流部も田んぼがありました。これらのほとんどは、海上の里の農民が耕作していました(屋戸川下流部、吉田川沿いの田んぼは吉野町、屋戸町の農民が耕作していました)。聞き取りによれば、水の出る沢はすべて田んぼにしたといいますが、まさにそのとおりです。

 これも驚くべきことですが、現在の樹林からは想像もつかないほど、山の樹木はほとんどが「丸刈り」にされており、大きく成長した森林ではなかったことです。民家の高さなどから推定して、大部分の山は数m以下の森林で、10mを越える樹木はほとんどないことが分かります。当時の皆伐の状況が分かります。しかし、切り残されておよそ10m以上の森林も部分的に残されています。おそらくそれは、奥地であるために切り出しが困難で皆伐を免れたものや神社や屋敷森であると推定されます。興味深いことは、海上砂防池や篠田池周辺の県有地では、皆伐ではなくぽちぽちと樹木を残して切っていることです。おそらくそれは、直径が数十cmを越えるような大木は、切らずに残したのではないかとおもわれます。あまり大きな木は運び出すにも薪にするにもかえって手がかかる、と地元の人が言っていました。現在でも、海上の森でしばしば巨木に出会うのは、切り残された樹木であったと思われます。

 海上の森の南部や東部には、広くスギ・ヒノキの人工林が分布しています。それは、県の植林政策により、松林を切って植林された人工林です。大正時代から少しずつ始まっていますので、旧い樹木は現在は80~90年も経つ大木に成長しています。航空写真を見て興味深いのは、スギが谷筋に植えられ、斜面中腹はヒノキが植えられていることです。スギは水分が豊富でないと成長しないので、その性質を考えて植林したと思われます。尾根部分の痩せ地は松林のままでした。

 海上の里周辺の民有林も、薪用の森林を残して同様に切られました。既にスギ・ヒノキが植林されたところは除いて、皆伐されたところは山崩れや表土の流出が激しく、その砂防のためにヤシャブシ・ハンノキ・ハリエンジュ(ニセアカシヤ)などが植樹されたといいますが、その場所や広さについては資料がありません(県農地林務部「瀬戸市南東部地域自然環境保全調査(人工林・常緑広葉樹林)」)。その後、自然にコナラ・アベマキなどの落葉広葉樹が侵入し、植樹されたヤシャブシなどを覆い隠すように成長したため、今はほとんどその痕跡を留めずに現在の落葉広葉樹の森となったと考えられます。つまり、戦後、皆伐した後の海上の森は、ほとんど人手が入れられず、自然の森林の遷移に任されて現在に至ったと考えられます。

 当時を知っている方々に聞くと、しばしば海上の森は「禿山だった」というのですが、「禿山」と「丸刈り」とは根本的に違います。禿山は、表土がむき出しになって流出しているところであって、丸刈りは表土がむき出しになっていないで、草や小さい潅木などで覆われている状態です。禿山は表土が流出していますので、その回復には長い年月がかかります。それに対して、山の樹木を切って丸刈りにすると、自然に萌芽更新やドングリなどの種子によって芽吹き、10数年もすれば森林としてよみがえります。一般的には、里山林は15〜25年のサイクルで森を伐採しつづけてきたといいます。

 ところで、海上の森の中で、禿山となっていたところは、屋戸川流域の砂礫層地帯に顕著に見られます。とくに著しいところは、銭屋鋼産のところに南から流入する広久手川の流域です。砂礫層で土壌層が薄いために、丸刈りにされた結果、表土が降雨によって侵食されて禿山となったものと推定されます。そこでは、尾根の部分が著しく禿山となっている他、山腹には山崩れによって禿山化されたところも見られます。その他の地域では、尾根の部分が禿山化しています。それは、屋戸川流域ほど厚く存在しませんが、尾根の部分に薄く砂礫層が乗っており、その部分が禿山化したと思われます。

 戦後すぐに撮影された瀬戸市全域の米軍の航空写真を見る限り、禿山化が著しいのは、現在の陶磁器資料館や若宮町の聖霊学園などの海上の森を取り巻く周辺部であり、海上の森は相対的に見れば禿山化が激しく起こっていない地域です。当時の人々の記憶にある「禿山だった」というのは、樹木の伐採による丸刈り状態と禿山化とを同一視した結果であると推定されます。

 


前のページへ▲|▼次のページへ

 目次/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15/
16/17/18/19/20/21/22/23/24/

● 表紙に戻る
● 目次に戻る
● 読者カード(アンケート) この「マスター・プラン」に対するご感想をお聞かせください。
 ライブラリー TOP

 電子出版のご案内